出身地によって、作品が大きく変わることはあるのだろうか?

ドイツに来て制作するようになってから、この疑問がいつも頭の中にあった。アイデンティティをテーマとした作品でなくても、やはり、作品を作るというのは自分の頭の中にあるイメージを自分の伝えたいことが伝わるように具現化する作業なのだから、その作家の“目”に寄るだろう。何をみて何を感じているのか、ということが非常に影響する世界には違いない。
そんなことを、びりびりと感じる作品に、出会った。
MICHAL ROTHSCHILD。イスラエルで生まれ、NYで制作していた彼女は、そこでたまたま私の大学の助手と出会い、ベルリンでの展覧会に招待された。一緒に展示をやることとなった私達は彼女の作品を自己紹介代わりにみることになった。 
『Vision 2003』と題された作品。ビデオインスタレーションだ。 画面に、一瞬モニタ画面がずらりと並ぶコントロールルームが映る。その画面の一つに、吸い込まれる。エルサレム市旧市街の夜が写し出される。

VISION2003より。
イスラエルの旧市街内

VISION2003より。
上下とも入り口に展示された
2つのモニタからの映像。
上:旧市街を監視する部屋。
下:これらで安全を与えているんだ。
目にみえる、そしてみえない形で。

奇妙な暗さ。ひとけが全くない。そこを、カメラが走って行く。これは車のスピードだと彼女は言うが、なんだか見ているうちに、体の中を焦燥感がぞぞぞと走る。頭のてっぺんから、映像に吸い込まれそうになる。走っている映像なのに、なんだか追われているような、追われている自分をまた遠くから傍観しているような奇妙な感覚。ビデオ画面がまるで透明な膜で、その内側と外側に私がいるようだ。
変。吸い込まれる。
そしてもうひとつのビデオ映像。巨大なコントロールルームの映像が横長の画面に2つ写し出される。機械音。
画面が切り替わる。画面の左側にはコントロールルーム、もう一つは監視員のひとりのバストショット。監視員が話す。
『エルサレム市はデリケートな街なんだ。』
『道にいる全ての人達は見られている』
見られている?見張られている?
しかし彼はこれは安全のためのコントロールで見守られていると言わんばかりだ。
『これらによって彼等は身の安全を与えられているんだ。』
みえない見張り。みえない視線。

旧市街の映像は、市内のパトロールをする2人乗りの小さな車にたまたま乗せてもらって撮ったのだという。
15年間街を走っているというその陽気なパトロールの2人組のひとりがたまたま飲み物を買いに出て、空いていた席に彼女を座らせてくれ、ハンディカムで映像をゲットしたのだそうだ。
エルサレム旧市街のすべての街角には監視カメラが仕掛けられている。それを、どこかで見ている人がいる。私は知らなかったのだが、旧市街は壁に囲まれ、出入りもコントロールされているそうだ。

『エルサレムは 宗教的にはCity of Light とされているのに、夜になると人が消え、からっぽになる。暗闇になる。人は内に入ってしまう。 その闇を外からみている人がいる。道で目にふれるものは、闇。恐怖。 神はどこにいるの?と感じていた』とMichalは言う。
わたしたちがいる場所と、それをみている視線。その位置関係が、ビデオカメラを通して、入れ代わり、交錯する。

旧市街の映像は、みていると、車に同乗し道を走っているようにもまた自分の中を車が走っているような気持にもなる。内と外が混在し、自分の立っているところさえも自分の皮をはさんでごちゃごちゃになるみたいだね、と尋ねてみると、このインスタレーションはまさにその意図で作られたのだという。
イスラエルで展示した際には、入り口から続く廊下の壁にある物置きや消火栓などのドア部分は全部剥ぎ、その前に、コントロールルームと監視員の映像、そこからは闇。広がる闇の中に等身大の旧市街の映像を流したのだそうだ。
闇は、境界線をなくし、距離を変え、次元をも違わせる。また、精神、気持の部分に非常に入り込みやすい環境を作り出す。闇の中で彼女の映像を見ていると、体が吸い込まれそうになるのと同時に、なにか非常にこころが揺れ、不安、焦燥感がわいてくる。体の安定も失いそうになる。彼女のみているもの、VISIONが、伝染する。
闇は、境界線をなくし、距離を変え、次元をも違わせる。
また、精神、気持の部分に非常に入り込みやすい環境を作り出す。闇の中で彼女の映像を見ていると、体が吸い込まれそうになるのと同時に、なにか非常にこころが揺れ、不安、焦燥感がわいてくる。体の安定も失いそうになる。彼女のみているもの、VISIONが、伝染する。
イスラエルに私は行ったことはない。
しかし、この映像をみて、そこにいる人達の思い、みているもの、を肌のすぐそばに感じた。みはられているものの息苦しさと緊張感、みまもられているものの安心感。この2つの状態が一緒に存在、ズレる。
この感覚にはちょっと日本を思い出す。

ベルリンに来てから、とっても呼吸がラクなんだよ、と友だちに話すことがある。
東京では始終みられているような感覚があった。そして、私も、人をみていた。それはイスラエルのような物理的な監視ではないかもしれない。けれど感覚的に。
他人が何をして、何を身にまとい、どんなものを食べて何を言うのか。それをみて、あまり規格からはずれないようにすること、もしくは規格から外れたことをすることで、逆に、何か別の規格に属するようにすること。これを無意識にやっていたように思う。みえない、柔らかい、しかしゼリーみたいに私の周りにある監視。
その監視は、自分の中にもある。目が裏返る。自分にみられている感覚。あの焦燥感は、今でも私の中にあるが、それほどリアルではない。
しかし長い地下鉄にのって30分あまりも閉じられた場所を走っていると体がその感覚を思い出す。半分頭はぼぅっとしていて意識は飛んでいるのだが首の辺から肩、指にかけて、チリチリしてくる。衝動的な暴力が頭をよぎる。
これは東京で生まれた私、特有のものなのだろうか?
そんな感覚を内に持っている自分が今、別の場所に立ち、呼吸をして何をつくるのか?

彼女の作品をみて、自分のアイデンティティーをテーマとしてかかげるよりも、こうやって自分の目を差し出すようにして、人に伝えることができるのだ、と実感した。どうやって私は私のなかの“目”をえぐるのか。わたしと、他人の目の間をどうやって埋めるのか。
彼女の作品をみたあとこんなことを考えながら、また何かを作り出したい!と切実に思った。

VISION2003より。
上:モニタを並べた入り口から闇に入る
ところに設置された、旧市街内の映像
旧市街にはひとっこひとりいない。
そこにちらりと写る猫。
下:入り口にあるモニタの映像より。
路上の全ての人は見張られている。
左の方に写っているのは
イスラエル旧市街の地図


Special Thanks to: Michal Rothchild



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