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壁に開いたガラス窓の後ろで うごめくからだ・・ のシーンから。 インパクト大のポスター。 |
『これが私のからだです。前、横。・・身長160センチ・・頭、小さな口、茶色の目が2つ・・』
からだを表現する言葉が並び、その隣では、言葉から想像される場所や動きではない動きをする別のからだが。 そのズレが逆に、からだの輪郭を彫りあげていくみたいに感じる。 舞台にあった壁に狭いショーウィンドーのような窓が表れ、そこでパズルのように、なまめかしく動くからだ。 満員電車におしつけられた人達みたいにもみえるけれど、まったく違った、生き物っぽさがある。 裸に近いからとかそんなことじゃなく、動きから、皮膚の下に肉があり、血が流れ、汗が毛穴から流れているんだって感じがするのだ。 みているだけなのに、鳥肌がたって、自分の皮膚の下の肉まで感じてしまう。 ガラスには、ずるずると押し付けられながら動いた皮膚の油の筋がみえる。 また裸で、習字を手直しするかのような赤い墨で、体に丸を書く。『腎臓は1つ○○ユーロ!』同じからだでも、観念のからだ。 売買される、“からだ”。 トナカイのぬいぐるみをむしって、頭と前足、後ろ足に解体して、それを無理矢理頭にかぶる。 手足にはめる。 お腹に詰め込む。 壁の上からスキーで滑り降りて来る人、 文字を書く人、歩く人、寝る人、舞台の外から落ちる人、投げる人。 からだ、からだ、からだ・・が舞台だけでなくシャウビューネ全体に満ちてきて、自分もビリビリとからだ、を感じ始め、 からだから頭が切り離され、ぼーっとしてきたところで、 巨大な壁がバターンと倒され、その耳がツーンとなるような音と舞台から客席へともうもうとあがった埃で、はっと目がさめた。 光と影、動き、ひと、からだ、色、布・・全ての要素がからみ合って、変な表現だが、からだだらけ、って感じになる。 シャウビューネという場所と、そこに集まった客の高揚感までもを取り込んで、ダンサーの、そして客のからだをゆさぶり、 体の底にある、からだの実感、リアルを起こす。眠らせてくれない。 素晴らしい作品だった。 |
サシャ・ヴァルツは2000年からこのシャウビューネで芸術監督を勤めていたが、
2004年末から新しい場所に移り、 現在はフリーで“Dido & Aeneas”という長年の夢だったオペラプロジェクトを進めているという。
このプロジェクトはもともとシャウビューネと州立オペラ座の共同プロジェクトだったが、
今は、“サシャ・ヴァルツ&ゲスト”が“オールド・ミュージックのためのアカデミー”と一緒に、 ルクセンブルクのGrand Theatre de la Ville 、
ウンター・デン・リンデンの州立オペラ座、 モントピーリアのオペラ・ナショナルとの共同製作でやっている。 『シャウビューネから離れ、シアターとの共同製作の中で依存しない、独立した構造を作る事は、 私達のアートを高いプロの水準に続けて行くためにも、発展させていくためにも、正しい道だったと思う。』 と語る彼女に迷いはないようだ。 (1/15のTagesspiegelに掲載のインタビューより) 私は、“Koerper”を改めて見て、シャウビューネは素晴らしい空間だし、ここでしか表現できなかった彼女の作品もあるだろうなあ・・と思った。 彼女自身は、『シャウビューネでの“Koerper”三部作は私の人生において、1つのリアクションの最初のラインにある』と言っている。 『そして今、もう一度根本的に、何がアートを動かすのか、と問い直す所に到達したのだ』と。 ひとつ、素晴らしいモノを、良い場所でできたからといって、彼女は留まらない。 最高は最も高い場所、だけれど、いつも上は存在する。最高の次の最高を作ってどんどん高くなれば良い。 なんにせよ、共和国宮殿の例をみても、場所の歴史までも巻き込んで世界を展開させることができる彼女の作品は、場所の影響が強いのは一目瞭然。 シャウビューネでの作品に最高があるからこそ、次の場所に移った彼女の作品がどうなるかみてみたい。 どこに広がる、どんな世界に巻き込んでくれる気なのか。次の作品も最高に注目だ! |