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彼等は足に合わない大人向けのハイヒールやスキー板をはいていたり、壁にたてかけられていたりしました。
歩いて行く事も、足を踏み締めて地上に立つこともままなりません。しかしそれに不満を持つでもなく、逆にそれに興味を持つでもなく、ただ、“そこにある”という感じです。
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足に何もはいていない“マックス”もしくは“クララ”でも頭がつなぎとめられています。この頭を天井と、宙とつなぐヒモは彼等を浮かせるでもなく、ぐるぐる巻きにするでもなく、ただ、そこにあります。鳥を抱えていたり、肩に杖とお弁当みたいな包みを持っていたりしてもそこには意思が存在する感じがありません。彼等の身体とアイデンティティーは宙に浮いています。
私も作品を作る時ずっと、身体性や肉体とそこにまつわるリアリティーについて考えて来ました。最初はもっと“肉肉しい”もの、肌や肉、皮膚を感じるものを実際作る事から初めましたが、だんだん、肉体や身体性を表現するのに、その作品そのものが“肉”である必要はない、というコトと、その肉の先にあるカラダのリアリティそのものに興味を持つようになり、作品が変わって行きました。それに伴って興味をひかれる作品もその時々によって移り変わって行きました。直接的なものから、ちょっと合わない異質な感覚、大声で主張するのではなく、主張を読み取りたい気持ちになるようにこっちをくすぐってくる仕掛けのある作品・・などなど。 なんでこんな事を長々説明したかというと、彼女の作品には、数年前の私だったらあまり興味をひかれなかっただろう、と何故かそういう印象を強く受けたからでした。 意思を感じない、どことなく突き放されたような、外側を似せた“身体”、空虚な目を持つ“カラダ”は見る人に即座に強く語りかけてくるものではありません。しかし、その視線のはずれ具合、重心がないような、消点がないようなインスタレーションは私の心のちょっとはずれたところをこすっていきます。 展覧会を見た後、彼女の昔の作品のカタログをぱらぱらとめくってみました。 “マックスとクララ”の様に型取りされた子ども達がギャラリー空間に傾いて立っていたり、寝ている作品。彼らはおなじように浮遊しているようですが、なんとなくまだ彼等の意思で動いている感じがし、そこにはやわらかい空気と彼等の息遣いが流れていました。 しかし今の“マックスとクララ”には、空気がないかのような、そして目があるのにそこには何も読み取れず、こちらがどうしていいかわからないような、奇妙に心ひかれる感じがあります。気持ちも、こちらのカラダの感覚も重力を失ったようなようになり、目が回る様。 まだ、彼女の作品をどう表現していいかはわからないのですが、別の作品をとても見てみたい作家です。 |
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