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Kunsthalle のその展示場は地下。行った日はとても暑い日だったのに、そこだけすうっと温度が違いました。 地下室の匂い。 忘れられたものの匂い。 美術館では次の部屋へ行く時は大抵、開いている入り口を通るのに、ここでは重いドアを押して次、次、と行かねばなりません。 看板や矢印があるわけでもないので、戸惑います。この時はここで働いている人と行ったので、迷わず扉を開けられてしまい、ちょっとがっかりしてしまいましたが・・・。自分で“そちら側”への抜け道を発見できていたら、もっとのめりこめていたかもしれません。 ある部屋には、女の人が倒れこんでいて、暗い大きな部屋にはいると、小部屋の上に人影、足が。どちらも人形だったのですが、オープニングパーティの時には人がいたそうです。進んでいくとビデオが壁に写し出されていました。“家”の中を歩いていくビデオ。 ゆっくり、しかし他人のテンポで、まるで迷路のような家の中を歩いていく荒くて暗いビデオは、目をこらしてみていると、車酔いのような、吐き気を催すような状態になってきます。その酔いとともに、家の匂いが、ほこりが喉の中に、鼻の中に、入り込んできました。音は、撮影者の動く音、ぶつかる音、高い所を登る時のあがった息だけ。 |
それを抜けるとある“部屋”の断片(右写真)。オープニングパーティでは、青いゴミ袋の中に作家本人が入っていたそうです。 今回の展示で今までの彼の作品と全く違っていた事は“人がいる”ということでした。いつもは“家”のみで、そこにあるのは人が“いた”という痕跡のみでした。しかし、今回は人が“いる”という事がそこにそのまま提示されていたのです。 私がみたのは“人”ではなく、“人形”だったので、逆に生きているものの気配が外側だけ残っているようでした。 ひとの形をした、モノ。 それは逆に、非常に生命感のなさを感じさせ、まるでチョークで床にかかれたひとがたをみるような嫌さを感じました。決して嫌な意味でなく、とてもいや。 |
Kunsthalleの別棟の方からつながっている入り口の前にはなんとガレージが設置されていました。(下写真)そこに友だちと入って中で息をひそめていると、自分もこの家の一部になったような気になりました。もしかしたら、作家本人が居た時は展示会場全てにこんな雰囲気が漂っていたのかもしれません。 外にでると、あまりに眩しくて、先程の地下でのできごとが逆にくっきりと浮かびあがってくる気がしました。 追記:今回にあたって、写真を見直していたのですが、会場内に真っ暗な部分は少なかったのですね。とても暗かったという気がしていました。会場内に立ちこめた“闇”がそう思わせたのでしょうか。 |
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