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(c)Internationale Filmfestspiele Berlin |
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さて、この映画、『ぼくらはもう帰れない』は、うわー、もー、どうしましょって、思わずもんどりうって痛くなったあげく、
最後には笑ってしまうくらい、東京の、日本の? 人と人との関係が切に描かれている映画でした。 ディスコミュニケーションと一言で言ってしまうのは簡単すぎる。なんというか、一緒に居るのに、生活しているのに、話しているのに、 恋人どうしなのに、ストーカーなのに・・東京で人と、関わる、という独特の感じ、そこにいる、人、そのものを出した映画です。 (〜の人を描いた映画、というと、映画っぽいのですが、この映画は、人を描いた、のではなく、人をそのまま出しちゃった、という感じがすごい、と思いました。) 自分のポートレートをずっとポラロイドで撮っている男、霜田敦 SMの女王をやりながら、なんだかな、って思っている、くるみ 映画雑誌編集をしながら、どうも仕事がうまくいかない、鳥居まお 真央をストーカーする男 映画雑誌編集部のバイト君で、映画マニアのユウシン。 この5人が、いる、ことを撮ることで、東京の風景がにじみ出てくるこの映画。5人が発する言葉が、もう、なんというか・・、 生々しいのです。粘着質の生々しさではなく、生の、人を、見せられてしまった感じ。 例えば、映画雑誌の編集として働く鳥居真央が、藤原さん(藤原敏史監督自らの出演)に自分の企画を話すシーン、 自分が編集部の人と電話する時を思い出しました。 『えー・・そうですよね・・えっと、ええ・・あの・・』 あいずちをうちつつ、あたりさわりない言葉を探す、言い逃れというか口の中のもごもご。 急に仕事がなくなって、『困る』と文句を言いに行ったSMの女王、くるみの横で、その話を聞き流すママの足の下には奴隷が。 自分の顔をポラロイドで撮り続ける霜田敦を追ってビデオに撮るユウシン・・
ここに描かれた人たちを『東京の』とか『日本の』とくくってしまうことはしたくない。 でも、この映画の中に流れる空気は、まさに東京のもの。 特に、私には、音楽含め、音が、すごく日本らしい、東京らしいと感じました。遠くから流れてくるコンビニの音、選挙カーの演説、工事現場、 日本の携帯の、すごい和音の着信音・・(ドイツの携帯はほとんどまだ、単音でぴろぴろ言うくらいなので、あの乾いた電子音の、軽いけれど複雑な和音は新鮮) 東京に一時帰国した時、まわり中に音が氾濫しているのに、面喰らったことを思い出し、その話を一緒に行ったドイツ人の友人にも話しました。 渋谷なんかもう。マツキヨとカメラ店の節がついた宣伝音楽、人の呼び声、歩く人のおしゃべり、携帯電話の呼び出し音、カフェのBGM・・。 友人は、日本にいたことがあるのですが、パチンコの音に驚いたそうです。 あの爆音の中で、みんな、何ごともなかったかのようにゲームに集中している、その姿に。 後、夜がネオンがきらきら、コンビニの冷たい明かりとともに明るいのにも、最初は驚きました。 ベルリンから来て、改めてその中に入ると、音と光と人が多いのに慣れず、でも、皆と同じようにそれを気にしないようにしていると、 なんだか、自分が立ってる感覚を失うのです。こんなにいっぱい人がいるのに、音があるのに、まったく無関心。 満員電車で、こんなに肌が触れあっているのに、なるたけ目の前のことは考えないように、 他人のことは考えないように、自分に言い聞かせているうちに、慣れてしまう、あの感じ。 |
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そして、意味もなく発されている言葉、のいかに多いことか。帰った日に、まずはコンビニに行くぞ〜と、コンビニに入ったら
『いらっしゃいませ〜』と言われたので『こんにちわ』と答えたら、店員が驚いたようにこっちを見ました。
スーパーでも心をこめて、胸に手をあてて御挨拶・・・なんてされて、なんだか気味悪かった。
でも数日したらすぐ馴染んで、そんなの全然関係なくなって、平然と、満員電車から人を押しわけて駅に降り立っている。
恐い。眼をつぶって、映画の音だけを聞いていると、まるで東京がそこにあるようで、そんなことが色々思い出されました。
東京、自分が24歳まで暮らした街に、奇妙に帰りたくなるような、なつかしいようなでも恐いような、混乱状態にちょっとおちいったり。 あー東京。 こういう東京、うわーと思うけど、でも好きです。この街が自分の体の中にあるのだなあと、この映画をみて、その部分がうずくのを感じました。 ぼくらはもう、帰れない。 |