ベルリン映画祭も日曜日に授賞式も終わりました。さて、今回は、惜しくも賞を逃しましたが、 批評家連絶賛だったアレクサンドル・ソクーロフ監督の『太陽』について書きたいと思います。
ヒットラーをテーマにした『モレク神』も濃霧がじっとりのしかかって来るような重たい暗さに包まれた映画だったそうですが、 今回も全てが濃霧の中にあるような、藻が浮いた水槽の中のような、密度が濃いもやの世界でした。 その濃灰色の中で、ぽぅっと明るく浮かび上がる、白い手袋。
平家蟹のアップ、魚のように口をぱく、ぱく、と動かす天皇、 空襲シーンは爆撃音が流れているのに、もやの中では戦闘機の代わりにしっぽをヒラヒラさせて泳ぐ魚達が・・。 妙な映画でした。

舞台は終戦直後の1945〜46年。 ヒロヒト天皇が人間宣言(自分の神格性を否定した宣言)したのが46年の元旦で、 その前後の話です。
最初の頃は、ボタンも自分でかけず、御用係にやってもらう昭和天皇。 手が震えてなかなかボタンがかけられない御用係の薄い白髪の隙間から見える肌に染み出て来る汗。 『僕の体も、君の体も見た目はかわらないのにねえ』とぽつりと呟く。 このポツリ、が後悔があるわけでもなくさしたる疑問があるわけでもなく、何の含みも無い、軽い、ポツリ。
『あ、そう』
『へえ』でもなく『そう』でもなく、『ほう』でもなく。
今日のスケジュールを聞いても、家族の様子を聞いても、戦況を聞いても、『あ、そう』。 この『あ、そう』は昭和天皇の口癖だった事で有名ですが、 今回の映画全てが、この『あ、そう』な天皇のムードにつつまれていました。
宮城の皇居が戦火に焼け落ちた後に、天皇が住んでいたという、 白くて四角い鉄筋のモダンで巨大な住居。 そこの庭では鶴が、細長い足でひょろりひょろりとお散歩中。 そこに乱入するジープに乗ったアメリカ兵。鶴が兵隊に抱き着かれ、鳴きながらもがく。
佐野史郎演じる御用係が、『ここで撮影して下さい!』『これ以上は近付かないで下さい!』とヒステリックに白い手袋を振りたて、 昭和天皇をカメラにおさめようと大騒ぎのアメリカ兵と一悶着起こしている後ろに、 階段を数段ひょい、ひょいと降りて現れる天皇。鶴みたい。
そのままリズミカルに植え込みの薔薇のところに向かい、花の香を嗅ぐ。 アメリカ兵が気付いて、『おお、天皇だ!』『あれが天皇だ!』 『チャーリー(チャップリン)に似てるぞ!』と騒ぎ立て、フラッシュを焚く。 『近付かないで!』と叫ぶ侍従。まるでアイドルに群がるグルーピーみたいに、アメリカ兵は黄色い声で『チャーリー!』と呼ぶ。 その声に答えて、ちょっと帽子を持ち上げておどけてみせる天皇。
『私は、例の俳優に似てるかね』『はっ、いえ・・』
マッカーサーから招待を受ける。スラスラと英語を話し、ドイツ語、フランス語も出来ます、と述べる天皇に、 米軍の通訳は『貴方は日本語を話して下さい』と頼む。 ちょっとした話し合いの後、部屋を後にしようとした天皇は、扉の前に立ち尽くす。 しばらく待つ。ドアを見る。ノブをつかみ、ドアを開け、外にでる。
夕食の招待。2人だけで話そう、と通訳を追い払う。 葉巻きを薦められ、マッカーサーの葉巻から火を貰う天皇。2人の顔が近付く。 『で、』とマッカーサー。『どんな気持ちだね、人間の形をした神であるのは。』
昭和天皇は海洋学者でもありました。 魚の美しさについてその学名まで出して長々うっとり説明する天皇の話をぶっちり切って、 出て行ってしまうマッカーサー。 それに気分を害されるふうも無い天皇はのんびりと部屋をくるりと一周。ロウソクをばふ、ばふ、と消していく。
晩餐から帰ってきた天皇は、いつもの『あ、そう』な雰囲気はなく、足音も高く、バーンと自力でドアを開け、 むしり取るように自分の軍服を脱ぐ。 何ごとかとあわてる御用係を追い払い、墨をすり書きはじめる。

皇后(桃井かおり)に『神じゃなくなった』事を告げる天皇。 『あ、そう!』と皇后。え、あ、そうなの?『あ、そう。』『あ、そう』の繰返し。 微妙なトーンが驚きと疑問と意志をわける。あ、そう、なやりとり。
『大広間に行って子ども達に会いましょう』『会おう』出会ったばかりの恋人達のように、 手に手を取り合って小走りに出ていく。 『(人間宣言を)録音した若者が自害いたしました。』と何ごともなかったかのように告げる御用係。 『止めたんだろうね』と天皇。『いえ』



今回の映画は、終戦後の天皇の心理を描いているとされていましたが、 私は、心理描写はあえて、無かった、無いけれど、無い感じを味わうのがこの映画じゃないのかな、と思いました。
人がほとんどもやの中で、言葉も『あ、そう』で。映画全体を包んでいたもやは、映画館中を包み、 私もその中にたゆたっているような気になりました。
もやの中で、そのもやが晴れない事こそ、すべてが『あ、そう』な所にこそ、 曖昧なニッポンの昭和天皇の位置がある気がしました。良いとか悪いとかではなく。

今回、ちょっとだけ桃井かおりさんとイッセー尾形さんにお会いする機会がありました。 イッセーさんは昭和天皇を演じた通りの、静かな、しかし含みのある方でした。 今回は右翼に狙われるかもしれないと思いつつ命がけで出演を決めたとか。
桃井さんは、そのイッセーさんの軽やかなしかし湿度のある存在感に対して、 和文字のような方。 圧倒されるような女優オーラが出ているのですが、決してイッセーさんをかき消さない。 甘いのに子供っぽくも大人っぽくも、媚た感じもないざらっとした声。 この人でないと、天皇の『あ、そう』に軽くなりすぎず、品があり、でも納得したような、皇后の『あ、そう』が返せない! と実感させられました。

さて、アレクサンドル・ソクーロフ監督は権力をテーマにした3部作として、 『モレク神』(ヒットラー)『牡牛座』(レーニン)、そして、この昭和天皇をテーマにした『太陽』を撮影したそうですが、 この『太陽』撮影後、またアイディアが浮かび5部作にする!と発言。 さて、誰を撮る気でしょうか?




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