今日、11月9日は、ベルリンの壁が倒れた日。1989年、15年前の事です。 当時中学生だった私はテレビを見ながら、社会科の歴史がまた変わって覚える事が増えたなあとか、 ろくでもない事を考えました。 しかし、それでも、壁によじのぼり、誇らし気に胸をはる人々、壁の前でのチェロの演奏等は記憶に残っています。 その頃にはまさか15年後に自分がベルリンに居ようとはまさか夢にも思っていませんでした〜! ベルリンは遠い国の知らない街。 モニターの向こうのリアリティの無い世界だったのです。
2000年にベルリンに来たばかりの夏には、まだ、そのリアリティは私には伝わって来ませんでした。 実際、西出身者、東出身者と言葉を交わすことができるようになって初めて、少しずつ、その感じが分るような気がしてきたような気がします。
ふとした事から、東ベルリン出身のカメラマンの友人が、『16歳でアメリカに行きたいなあと思ったのがばれただけで、 大学に行く事もできなくなった。好きな事を学ぶ権利も奪われてしまった。 壁が倒れて、私はカメラマンになれて、本当に嬉しかったのよ』とつぶやいた時、そうか、そういう街だったのだな、と。 それは他人のリアルではあるのですが、それを、東西統一から14年が過ぎた今 、日本人の私が聞くのも、違ったリアルなのです。
80年代後半は、もう色々な事が緩くなり、アンダーグラウンドなアートシーンは盛上がっていたんだよ、なんて話も聞きましたが・・・。
ベルリンは、特に東独の首都だったので色々厳しい事もあったでしょうが、逆に西ベルリンがすぐそばにあり、その電波が傍受できたため、 他の東独の都市の人達とはまた全く違った情報環境にあったようです。 西の情報が手軽に手に入る、しかし本物はすぐ手が届かない所にある。それはどれほど辛い事だったのでしょうか。
今回は、そんな東ベルリンと西ベルリンを隔てていた、壁が再建された!という話です。

白く塗られた壁は、
まったく本物らしくない、と言われて
『これはオリジナルです』
と応えたアレクサンドラ館長。
そういうことじゃないでしょ?


部手前にあるレンガの線が、
本来の国境線、壁所在地。
土地の関係で場所をずらした、
というのもちょっと・・
しかし、壁再建?
なんで今?
実際に計画が持ち上がってから、オープンの11月1日、過ぎてもベルリン市で物議を醸しているこの壁。 観光名所として有名な、チェックポイント・チャーリー、壁博物館の亡くなった前館長ライナー・ヒルデブラントが収集していたオリジナルの壁120個を集めて作られた記念碑、 というのが、一応の建て前。
過去の過ちを忘れぬために。それは、壁崩壊から15年が経ち、映画“グッバイ・レーニン”のヒットを受け、 オスタルギー(東ドイツ時代へのノスタルジー)が流行し、実際、その、壁があった時代とはいったいどのようなものだったのか、 忘れられている事を遺憾に思った館長のアイディアだったというけど・・・?
壁を再建するという彼のアイディアは現壁博物館長、アレクサンドラ・ヒルデブラントは『長い間、ここには記念碑も何もなかったが、 今、私達は、自分達の力で、それを成し遂げた。』 と発表しました。
しかし、ベルリンの文化担当の評議員は、この再建壁に対して、『現実問題に対する間違った解決法。チェックポイントチャーリーというのは、こういった記念碑をたてるには良く無い場所である。』と指摘。
それを受けて、ベルリン観光局局長は、『いや、この設置は、怠惰な政治への論理的な結論なんだよ。壁の再建については、議論の余地ありだけれど、十字架の設置は今まで建てられたどの記念碑よりも、説得力があると思う』とコメント。うーん、私は、壁と十字架の組み合わせが、いかにもで、??と思いましたが…。

壁再建のオープニング式典は、1974年、壁を越えようとして、このチェックポイントチャーリーそばで撃ち殺された23歳の息子の母、 ウルズラ・イェーネマンさん(左写真)がか細い声で、息子の死について語り、このような記念碑があり、そのプロジェクトに自分が参加できたことについて感謝の辞を述べるところから始まりました。 彼女は、新聞記者やテレビの記者達のカメラやマイクに囲まれ、何度も何度も繰り替えし、息子の死を語らされ、辛そうでした。 『もう、話したくないです』と最後にぽつりともらしたのが、きつかった。
式典開催前には、やはり壁を越えようとした家族を殺された人が、この壁があった時代にのうのうと 東独の政治のトップにいた人間が今でも統一ドイツの政治に関わっている事を叫んでいました。(PDS、現民主社会主義党(旧東独のSED、ドイツ社会主義統一党)の人達の事を言っているのでしょう)ピリピリと緊張した空気が走り、掴み合い寸前。面白そうにシャッターを切る観光客、間に割って入る人、カメラを抱えて走る人・・。そして、
壁設立を促したとも言われる、ソ連書記長ニキータ・フルシチョフの息子、セルゲイ・フルシチョフ(右写真)がこのオープニングイベントに、特別招待客としてロシアからやってきて、世界中に存在する壁への拒否、平和への強い意志を表明しました。

しかし、この壁は、本当に、過去の過ちについての記念碑となりうるのか?と、ベルリン人達の多くは、この壁について疑問を抱いています。
というのも、まず、ベルリン市内には、いくつか、東西統一時から残されている壁がすでにあるから。この再建された壁は『記念碑?今さら・・』になってしまうのはしょうがないと思います。例えば1キロに渡って続く壁と、その上に描かれた壁画を見る事ができるイーストサイド・ギャラリー。これにはカラフルに絵が描かれ、壁から解放された晴れやかな気分と、統一後の観光気分を味わう事ができます。“オリジナル”という意味で言うなら、ドキュメンタリー映画“トンネル”でも有名になった、トンネルが掘られた場所の近くにあるどんよりとした灰色の、本当に、その時代の時の色をしているベルナワー通りにある壁もあります。ここには壁資料館もあり、チェックポイントチャーリーに比べ資料も充実。リアルな東の壁の様相を呈しています。
しかし、それに対し、今回再建された壁は、“オリジナル”とは言うが、実は、もともとあった場所ではなく、数メートル手前にある私有地を借りて建てられているのです。というのもまず、最初に、記念碑として申請した所、ベルリン市から建設許可を得られなかったため。壁に壁画を書く、“アートプロジェクト”として許可を取るという抜け道を画策したのです。そして、計画当初にはなかった、壁を越えようとして命を落とした人の名前を入れた十字架、1065本。急に立ったこれも、いかにも、って感じで、ますますベルリン人からの不評を買うことに。

多くのベルリン人は『ここまでやられると、悪趣味を通り越して、ジョーク』『本当の東独を経験していない人達が考えそうな事。馬鹿馬鹿しい』『本当のオリジナルが数十メートル離れた所にあるのに今さら』『世界中のアーティストに絵を描かせて “アートプロジェクト”にします、なんて、こすい』と、手厳しい。にわかベルリン人の私にとってすら、この壁は、興醒めに写りました。
というのも、再建された壁、“平和を訴えるアートプロジェクト”のために真白く塗られたソレの前に、壁を超えようとして亡くなった人達の名前を掲げた十字架、1065本が立てられている様子は、確かに、人の胸を打つものがありますが、その十字架の後ろでは、東独秘密警察の制服、東独国旗、旧ソ連軍の制服の屋台が並び、壁の後ろでは、同じ壁博物館の前で壁のカケラが売られているのです。

東独、ソ連、ごった煮の屋台


アメリカ、イギリス、ロシアの
国境警備隊のパフォーマンスは、
俳優学校の子達のバイト。
検問所だったチェックポイント・チャーリーでは、今夏から、俳優学校の生徒を雇って、連合軍の国境警備隊のかっこうをさせ、写真を撮る商売までが始まりました。
最近では、チェックポイント・チャーリーをもじったファーストフードの店、“スナックポイント・チャーリー”もオープン(左写真の右端)。その、観光客をひきつけ、大儲けしている、壁博物館のアイディア、ベルリン子達が今回のプロジェクトを冷たい目でみるのもわからないでもないでしょう。
ベルリン市政府、壁のある地区のミッテ地区区役所はこのオープニングと壁について、『よかれと思って考えたことでしょうが、これでは、“冷戦・ディズニーバージョン”とでも考えられてしまいかねない。 ベルリン市の公共のイメージを損ねる』とコメント。 この“アートプロジェクト”は年末までには撤去してほしい意向だと言いますが、観光業界に不況を抜け出る一抹の光を見ているベルリン市のことです。どうなることやら?

あ、でもそれを表に出すと、壁を観光客寄せと思っていることになってしまうので、だめなのでしょうね。
*追記
2005年の7月、長らく不評を買っていたこの『新ベルリンの壁』と十字架は撤去となりました。

(この記事はTOKYO★1週間に発表されたものに訂正、加筆したものです。)




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