先日、掲示板でも話題になっていた橋口譲二さんのベルリンに関する本。彼はベルリン本は何冊か出していますが、その中でも気になっていた“ベルリン物語”をこれまた掲示板でお知り合いになったもっしゅさんに持って来て頂き、読んだ所です!
この本は1985年、つまり、ベルリンにまだ壁があった頃の出版。80年代半ば、壁が作られてから20年以上が過ぎ、西も東も『もう壁は壊れない』と信じていた頃。そして壁があるという状態にもう慣れてしまっていた頃。刺激を求めて西にやって来る人が増え、その飽和状態が、逆に“ラングヴァイリッヒ/退屈”、どうにもならないようなじりじりしたモノを抱えていた頃。そんな頃の西ベルリンに来た橋口さんが、実際3ヶ月暮らしてみて、人に会い、街に会い、して書いた本です。

その本の中にグリヒッケ橋、の話がありました。そこにちょうど先日、遠足気分で行ってみたので今回はその話を書いてみようと思います。
今この橋はヴァンゼーという大きな湖から、ハーフェル、ユングフェアンゼーという湖につながる辺りにあります。この湖の手前側(右の地図上では右下)は旧西ベルリン、そして奥(地図上では左上)がサクローと呼ばれる旧東側、ブランデンブルク州となっています。この近くには、孔雀島と呼ばれる、ベルリンの人がちょっと日曜日に景色の良い所行きたいね、なんて言うと出かける、孔雀が放し飼いにされている小島があり、この辺は日曜日ともなれば、とても混んでいます。


Glienicker Brueckeと書かれた所が、
壁の時代は、半分東、半分西だった
国境の橋、
“グリニッカーブリュッケ”
赤い線が旧国境。
現ブランデンブルク/ベルリン境



ヨットの向こうに見えるのが
ハイランズ教会。
教会自体は東側に当たるのだが、
川を潜って逃げる人が多かったからか、
壁の時代には、教会の建物に沿って、
えぐるように壁が建てられていた。
さて、左写真は、その旧東側、サクロー、ブランデンブルク地方を、旧西側から眺めて撮ったもの。 橋口譲二さんが来た頃(80年代)この辺には『アメリカ占領地区はココまで。注意』と書かれた札が水中に立っていたようですが、 1950年代にはまだ、バスの行き来があったとか。
この橋はもともと、第二次世界大戦時に崩壊し、1949年に“統一の橋”として再開。 しかし、壁の建設が始まった1961年、閉鎖され、国民の直接の往来は禁止。 連合軍と外交官だけが通行を許可されることになりました。 橋と、川の回りにも鉄条網と壁が巡らされ、逃亡を試みた人達が逮捕されたり、射殺されたりということがやはり、この回りでも起こっていたのです。
この橋はそして、東と西のスパイが交換される場所としても有名だったそう。 橋の両側、西のスパイは東から、東のスパイは西側の入口から、向かい合って歩かせ、真中でちょうど交換(というか取り引き?)したとか。 スパイだけでなく、政治活動をして捕まった人等の交換もあったようです。何にしろ、西が欲しがる人間を渡す代わりに東の要求も通す、逆も、ということなのですね。

今は陽射しも明るく、ピクニックやサイクリングの人達が通るこの橋にそんな暗い歴史があるようにはなかなか見えなかったのですが、 そういう話を聞くと、そんな気がしてくるから不思議です。
ベルリンの壁が崩壊した1日後の、1989年11月10日、この橋も通行が自由になったのでした。

当時は東側と西側半分半分で違う色が塗られていて、橋口さん曰く、“統一の橋”じゃなくて“分離の橋”てな様子だったようですが、今は、錆止めの渋い緑色一色に塗られた普通の橋。 静かな水をたたえた湖、その水は暖かい日でも冷たそうな、濃い色をしていました。 ここを必死で泳いで西に来たかった人が居るんだな、でも、失敗して撃たれたんだな、とぼんやり考えた午後でした。




画像、文章の無断転載を固く禁じます。
All Rights Reserved, Copyright(c) by Hideko Kawachi