1989年、東西ドイツを分断していた壁が倒れ、ベルリンが首都となりました。 それから10年以上。統一したといっても、西と東の雰囲気がくっきりと際立って違っている所もあり、外国人が多く全く違う雰囲気の地区あり。 ベルリン市内でも様々な特徴のある地区がまじりあい、まだまだ工事中の雰囲気の漂うベルリン。
壁崩壊直後数年くらいにあったカオス感はもうそれほど無いようですが、ドイツの他の都市のように、“市の真ん中に市庁舎があり、 そこから放射状に道が出ている”というような、しっかりした都市計画に基づく街の中心がなく、統一感の無い感じは健在です。 

 地続きなのに国が違い、言葉が違う、というのは周りを海に囲まれた国に生まれ、外国とは“海外”にある、という感覚がある私には未だに不思議なのですが、 東西ベルリンの場合はもともと同じ国で同じ街でありながら、突然、たった1日で出来た壁によって分けられ、 行き来さえ規制されていたのですから、いったいどういう状況だったのでしょう?
(この、1日でベルリンの壁ができた、というのは伝説じゃないか?と思っていたのですがどうやら、土台と住民の通行規制できるような鉄条網は本当に1夜で張り巡らされたとの事。 朝目が覚めてみたら、壁が!という感じだったそう。)
西側に逃げる人数が、壁建築の1年前、1960年には20万人、いっこうに減る様子が無かったため、東ドイツ側は国境封鎖を考えたとのことですが、 壁崩壊までに逃げることに成功した人の数は約5000人。失敗した数は約3000人以上。 捕まったら牢屋、見つかって射殺された人も多いでしょう。国民を壁で封鎖して外界から隔離してまで国の状況を隠さないと、維持できないような状況にあった国。
政治体制の話はよくわからないし、良い所もたくさんあったのかもしれないけれど、私にはそんな状況が良いとはやはり、思えないのです。


 壁ができてから数年の間は、まだ、同じ都市だったという感じが残っていたという東西ベルリン。その頃のベルリン市内地図を買うと、壁は明記されていますが、どちらの街も同格に表記されています。しかし、80年代後半に東ベルリンで出版された地図では、「WESTBERLIN」(西ベルリン)と書いてある、白地図があるだけ。もうこの頃になると、東ドイツの人達は、『まあ一生西ベルリンに行けることもないであろう』、と思っていて、むしろソ連などの方が、“近い外国”だったそうです。西の人も、東に行きたいと思うこともなく『どこそれ?』ってな状況だったそうなのです。
というわけで、もともと一つの同じ街だった隣街を“空白”扱いする地図が出来上がったわけです。

80年代後半に東ベルリンで出版された地図。左上の白い部分がWESTBERLIN(西ベルリン)
80年代後半に
東ベルリンで出版された地図。
左上の白い部分が
WESTBERLIN(西ベルリン)

旧東ドイツの偉人の名前のついた道や広場の紹介本
カール・マルクスの他、
エンゲルス、ブレヒト、
ローザ・ルクセンブルグ、
アインシュタイン、
モーツアルト等。

マルクス・エンゲルスは
巨大な銅像も残っています。
TV塔と赤の市庁舎に
はさまれた
その銅像のある公園は
さながら、リトル・ロシア。
その銅像の前で
集合写真を撮っている
中国人団体客を
よく見かけます。
 また、この西ベルリン側が“白い”、旧東ドイツ時代の地図を買って、興味深かったのは、通りの名前などが壁崩壊後に変わっているのを見ることでした。
ドイツではなんと、すべての通りに、どんな小道も逃さず固有の名前がついています。
そのため、日本のような、3丁目、とかそういった分け方はいっさいなく、地図ではっきり場所が確定できるため、人の家に初めて行くような時も、「コンビニの角を右にまがって2つめの角を行くと赤い屋根の家があって・・」と説明したり地図を書いたりする必要がないわけです。
(ちなみにこの地図を書く習慣は、丁や番地で成り立っていて、住所だけでは分かりにくい日本独特のものだそうで、日本と言えば・・ってこの話を持ち出す人も多いですし、ロラン・バルトの『表徴の帝国』でも「所番地なし」と紹介されています。。)
話がそれてしまいましたが、ドイツの道には全て色々な名前が付けられていて、著名人の名前にちなんだ物も多く存在します。例えば、ゲーテ通りとか、ハインリイッヒハイネ通りとか。
旧東ドイツ時代には、元の名前を社会主義の偉人や政治家の名前に変えてしまった場所がけっこう在り、そういった場所の名前が、壁崩壊後、元に戻っているのです。
もちろん、残された名前もあります。
左下写真は旧東ドイツで1973年に出版された子ども向けの、偉人の名前のついた道や広場を紹介し、その偉人の功績等も、図入りで解説している本の表紙です。
その真中に見えるカールマルクス。彼の名前がつけられたカールマルクス大通りは、未だにその名前で地図に載っていますし、その他にも残されている名前もあります。 いったいどういった基準で残されたり消されたりしているのかは謎です。

つい最近にも、次のドイツ開催ワールドカップに向け大工事をしているレアターシュタット駅という駅が、外側のガラス張り部分を完成させました。 それで新たな名前を公募したのですが、結局良い名前が見つからず、“中央駅”という無難な名前にまとまりました。
しかし、旧東ベルリンの人には『中央駅、と言ったら我々にとってはオスト(東)駅。紛らわしい!』と大不評。ベルリンの街の統一にはまだまだ時間がかかりそうです。

*付足
2006年、ぎりぎりワールドカップに間に合った『新・中央駅』。その周辺にも新しく道が沢山できました。 ここのところ、ベルリンの地図は毎年のように発行され、その度に違う道ができていたり、駅が開通していたりと変化があって面白いです。
先日、1910年代のベルリン地図を手に入れました。プレンツラウアーベルク地区など、まだ未開発で、ひたすら緑色。 古本屋のおじちゃんが『ここには昔、牧場があってね、しぼりたての牛乳を売ってたのさ』と教えてくれました。




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