ベルリンは東と西に別れ、さらにその周りを東独に囲まれていたかなり変わった街。 壁崩壊から15年以上も経った今も複雑な政治事情を感じる部分が沢山あります。
私はこのHPで自分が好きな『東』や歴史等についていろいろ書きました。
映画、『グッドバイ・レーニン!』の上映以降、 ドイツでは東独での生活がポジティブに『東独は良かった』的な紹介の仕方をされることが多く、私も良い面、面白い面を見る機会が多かったのですが、 これは、多分、 壁崩壊後ずっと『東独はひどかった』という報道がなされていた事の反動ではないかと思います。
私がベルリンの壁が崩壊したというニュースを見たのは中学生の時。壁の上に人が沢山登って歌を歌ったりしていた映像を覚えています。 ベルリンに来てからもなんどもその映像を見ましたが、それと共にとても印象に残っていたのが、東独国民が、シュタージ(東独国家公安局)に押し入り、 窓から書類を投げ捨てている映像。
STASIとは何の略か?ということもよく知らなかったのですが、(Staatssicherheitsdienst)ひょんなことから、 シュタージ・ミュージアムを訪れ、そこで見た数々の盗聴器や隠しカメラ 犯罪者の匂いが入った瓶(犬に追わせる時に使う)等にショックを受けました。 しかしショッキングだったとは言え、そこに居た監視員の人が解説してくれたり、単純に、へえ、こんな場所に隠したのか〜という事が面白かった感じでした (トラバントのドアや、墓地に置かれて居たジョウロの底に隠したものも!)。
そんなわけで、今年、友達からシュタージの政治犯刑務所ツアーが『面白い』という話を聞いた時、わりと気軽に足を運んだのでしたが・・


上の漫画みたいな絵、なんだか分りますか?ただこれだけ見てもなんだか良く分らないのですが、左写真にある器具と合わせて見るとなんとなく分かって来ます。 そう、拷問器具です。水が入ったバケツに顔をつけ続けざるを得なかったり、どこに顔を動かしても水が体中に当たるしかけになっていたり・・。 水を使った様々な拷問が行われる部屋が全4室。上記のスケッチはその拷問の解説図。
他に、ゴム部屋と呼ばれる、壁、床全てがゴム貼りになっている部屋(暴れても怪我しない。音も漏れない)も。 沢山あるこの部屋は、囚人を『静かにさせるために』使われていたそう。粗悪なラテックスゴムを使っているらしく、今でも強烈なゴム臭がしました。
訂正:再度この刑務所を訪れた際、確認したのですが上記の拷問部屋は、東独ではなく1946年まで使われていたソ連の拘置所でした。)
このツアーは、ベルリン、ホ−ヘンシェーンハウゼン地区に45年から89年まであった政治犯刑務所で行われています。 51年、国家公安省の創立に伴い、ソ連の拘置所として使われて居たこの建物がシュタージの手に渡され、50年代には共産主義独裁国家下で妨げになると考えられた人達が多く拘留されていました。 この94年に、東独の政治体制や拘留施設や制度等を調査するために記念館として保存されることが決まり、それ以来見学ツアーが行われています。
ガイドをしてくれるのは、実際この刑務所で、服役していた人達。実際、どこの牢屋に入れられ、どんな仕打ちをうけていたかを静かな口調で語る彼等に、 矢継ぎ早に質問が飛びます。昨年は12万人以上の人が訪れたそうです。私が行った時は観光客半分、そして東ベルリンの人が半分でした。
この近くに住んでいたという人が『刑務所の存在はまったく知らなかった』というと 『いや、こういう刑務所があるという噂は有名だった。』とツアー客の間で言い争いがあったりも。

この政治犯刑務所の存在も住所も、東独国民には極秘にされていました。もちろん面会も不可。 捕まった人達を刑務所に輸送するための車は普通の護送車ではなく、外から見るとスーパーに食品を輸送したりする車に見える物で、あくまでも秘密裏に運ばれ 、囚人にはその場所はまったく教えられていなかったとか。東の人達だけでなく、西側の人で、SED(ドイツ社会主義統一党)を批判していた人達も誘拐され、 この牢屋に閉じ込められていたという事実も分かっています。例えば、52年、西ベルリンの弁護士であったヴァルター・リンゼ。 自宅近くで誘拐され、この刑務所を経た後、モスクワで処刑。61年、壁が作られてから後は特に、逃亡計画を立てた人達がどんどん捕らえられ、ここに収容されていたそう。
壁崩壊後、囚人について調査が行われた時も、一体総勢何名が収容されていたのか、実際どんな事が行われていたか等の事実はハッキリとは分らずじまいだったと言います。 理由も分らず、うやむやに収容されたり、ひどい時には殺されたりしていた人も多かったでしょう。
収容された人達は主に、精神的にキリキリとしめつけられ、追いつめられて、シュタージの欲しい情報を吐くように強要されていました。


映画グッバイ・レーニンでも
沢山出てきましたが・・
ホーネッカーの写真が
未だにかかっている
刑務所内の事務室。
この刑務所自体が拷問のようなもので、囚人達同士の接触が限り無く少なくなるように考えられ、唯一出会い、口をきくことができる人間といえば、尋問官のみ 。
外界から限り無く隔離された状態で、毎日色々な事を吹き込まれていれば(尋問官になるための専門学校があったそう)、だんだん自分が信じていた事がゆらぎはじめる。自分の存在すらもあやふやになってしまいそう。
89年秋SEDの独裁政権は倒れ、90年の10月3日、東西ドイツは統一され、この刑務所に拘留されていた人達も解放されました。
私がツアーに参加した時のガイドさんは、Glienicker Brueckeのコンテンツに書いたように、 西側との取り引きによって解放されたのだと言っていました。 しかし、彼自身はスパイというわけではなく、西ベルリンからの友人と飲みに出かけた時に、西側への逃亡の容疑をかけられて逮捕されたのだとか。 東出身の友達が『高校生の時、渡米したいという計画を練ったら、その後要注意人物として、手紙も電話も全てチェックされた』と言っていた時、 『うっそ〜、そんな小さな事で?』とちょっと話半分で聞いていたのですが、そんな小さな事も、許されていなかったのですね。 そんなにまでして国民を厳しく統制していかないと成り立たなかった国は、 やはり、いつか壊れてしまう運命だったのだろうと、心の底から感じたツアーでした。

シュタージ政治犯刑務所:-----公式HP(見学は要予約)



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